2010年1月1日金曜日

正岡子規Ⅱ

雅号子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。

また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺(かわうそ)のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。

その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球」(のぼーる)もこの中に含まれる。

子規と病

喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。子規が最初に喀血したのは、明治21年(1888年)8月の鎌倉旅行の最中であった。翌22年(1889年)5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。この時子規はホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるようになった。

子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。明治28年(1895年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり、当初はリューマチと考えていたが翌・明治29年(1896年)、結核菌脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。

歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが、明治32年(1899年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子河東碧梧桐伊藤左千夫長塚節ら後進の指導をし続けた。河東碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。

評価

}} 俳句・短歌の改革運動を成し遂げた子規は、近現代文学における短詩型文学の方向を位置づけた改革者として高く評価されている。

俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。

その一方で、その俳論・実作においては以下のような問題も指摘されている。俳諧におけるゆたかな言葉遊び修辞技巧を強く否定したこと。あまりに写生にこだわりすぎて句柄のおおらかさや山本健吉のいわゆる「挨拶」の心を失ったこと。連句(歌仙)にきわめて低い評価しか与えず、発句のみをもって俳句の概念をつくりあげたこと、などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。

俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。

短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。

子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。いまでも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶるおおきいことは司馬遼太郎(司馬『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。

また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(妻の父が陸羯南)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。

代表作

俳句

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

松山や 秋より高き 天主閣

春や昔 十五万石の 城下哉

をとゝひの へちまの水も 取らざりき

短歌

くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる

松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く

いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす



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2009年11月21日土曜日

百人一首

1 天智天皇 - 2 持統天皇 - 3 柿本人麻呂 - 4 山部赤人 - 5 猿丸大夫 - 6 中納言家持 - 7 阿倍仲麻呂 - 8 喜撰法師 - 9 小野小町 - 10 蝉丸 - 11 参議篁 - 12 僧正遍昭 - 13 陽成院 - 14 河原左大臣 - 15 光孝天皇 - 16 中納言行平 - 17 在原業平朝臣 - 18 藤原敏行朝臣 - 19 伊勢 - 20 元良親王 - 21 素性法師 - 22 文屋康秀 - 23 大江千里 - 24 菅家 - 25 三条右大臣 - 26 貞信公 - 27 中納言兼輔 - 28 源宗于朝臣 - 29 凡河内躬恒 - 30 壬生忠岑 - 31 坂上是則 - 32 春道列樹 - 33 紀友則 - 34 藤原興風 - 35 紀貫之 - 36 清原深養父 - 37 文屋朝康 - 38 右近 - 39 参議等 - 40 平兼盛 - 41 壬生忠見 - 42 清原元輔 - 43 権中納言敦忠 - 44 中納言朝忠 - 45 謙徳公 - 46 曽禰好忠 - 47 恵慶法師 - 48 源重之 - 49 大中臣能宣朝臣 - 50 藤原義孝 - 51 藤原実方朝臣 - 52 藤原道信 - 53 右大将道綱母 - 54 儀同三司母 - 55 大納言公任 - 56 和泉式部 - 57 紫式部 - 58 大弐三位 - 59 赤染衛門 - 60 小式部内侍 - 61 伊勢大輔 - 62 清少納言 - 63 左京大夫道雅 - 64 権中納言定頼 - 65 相模 - 66 大僧正行尊 - 67 周防内侍 - 68 三条院 - 69 能因法師 - 70 良暹法師 - 71 大納言経信 - 72 祐子内親王家紀伊 - 73 権中納言匡房 - 74 源俊頼朝臣 - 75 藤原基俊 - 76 法性寺入道前関白太政大臣 - 77 崇徳院 - 78 源兼昌 - 79 左京大夫顕輔 - 80 待賢門院堀河 - 81 後徳大寺左大臣 - 82 道因法師 - 83 皇太后宮大夫俊成 - 84 藤原清輔朝臣 - 85 俊恵法師 - 86 西行法師 - 87 寂蓮法師 - 88 皇嘉門院別当 - 89 式子内親王 - 90 殷富門院大輔 - 91 後京極摂政前太政大臣 - 92 二条院讃岐 - 93 鎌倉右大臣 - 94 参議雅経 - 95 前大僧正慈円 - 96 入道前太政大臣 - 97 藤原定家 - 98 従二位家隆 - 99 後鳥羽院 - 100 順徳院

京都大学電子図書館へ 百人一首書画像(教秀イチオシ)

※ 書画像をクリックすると、大きく表示され、見やすくなりますよ。

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2009年11月15日日曜日

六歌仙

六歌仙は『古今和歌集仮名序』において紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として掲げた、各々の歌風を批評した六人の歌人
僧正遍昭 
在原業平
文屋康秀
喜撰法師 
小野小町
大伴黒主
ただし「六歌仙」という名称そのものは、後代になって呼ばれるようになったものである。 本来、単に貫之が近代の歌人として名のある者を列挙したに過ぎないものであるから、特に歌風などの共通性は見られない。ただし古今集に収録された歌人群のなかでは、いずれも撰者達よりひと時代前の歌人であることから、古今集収録歌を三期に区分して、順に「詠人しらず時代」「六歌仙時代」「撰者時代」と称することがある。

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2009年11月6日金曜日

与謝蕪村


与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
20歳の頃
江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿下野国宇都宮(栃木宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で
心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺金福寺(こんぷくじ)。
松尾芭蕉、
小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い『
蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
1992年より
尾形仂等編で、『蕪村全集』全9巻が講談社で刊行開始、2008年に第5巻「書簡」が出され8巻まで揃った。また岩波文庫で『蕪村俳句集』、『蕪村書簡集』がある。
春の海 終日のたりのたり哉
柳散り清水涸れ石処々
鳥羽殿へ五六騎いそぐ
野分かな
花いばら故郷の路に似たるかな
不二ひとつうづみのこして若葉かな
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
夏河を越すうれしさよ手に草履
ゆく春やおもたき琵琶の抱心
易水にねぶか流るゝ寒かな
月天心貧しき町を通りけり
さみだれや大河を前に家二軒
菜の花や月は東に日は西に
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
古庭に茶筌花さく椿かな
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
あま酒の地獄もちかし箱根山
鰒汁の宿赤々と燈しけり
二村に質屋一軒冬こだち
御火焚や霜うつくしき京の町
寒月や門なき寺の天高し
さくら散苗代水や星月夜
住吉に天満神のむめ咲ぬ
みじか夜や浅瀬にのこる月一片
秋の夜や古き書読む南良法師
うつつなきつまみ心の
胡蝶かな



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2009年11月3日火曜日

みだれ髪



『みだれ髪』(みだれがみ)とは歌人・与謝野晶子作の処女歌集である。1901年(明治34年)8月15日、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表。表紙装丁デザインは藤島武二。女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風は当時賛否両論を巻き起こした。

1973年(昭和48年)に、孫の与謝野馨(後の第74代内閣官房長官)によって主婦の友社から復刊されている。

内容
全399首 タテ192mm ヨコ84mm 三色刷 本文136頁
「この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」の文を第3頁に載せている。次の6章からなる。
第1章「臙脂紫」98首
第2章「蓮の花船」76首
第3章「白百合」36首
第4章「はたち妻」87首
第5章「舞姫」22首
第6章「春思」80首

晶子が雑誌「明星」などに投稿した作品を、与謝野鉄幹の編集で作られた。発表当時は晶子は鳳姓で、初版本も「鳳晶子」名義である。『みだれ髪』発刊直後の1901年(明治34年)10月1日、晶子は鉄幹と結婚。与謝野姓を名乗った。
『みだれ髪』の歌の殆どは、鉄幹への強い恋慕の感情が見られる。「明星」の編集を行っていた鉄幹は晶子の才能を認め、投稿を勧めていた。晶子も鉄幹の作品に強く引かれる物を感じていた。1900年(明治33年)8月、関西に来た鉄幹は晶子と出会い、意気投合。2人で京都に遊ぶ。既に結婚し子どもまでいた鉄幹だが、晶子の為、妻と離婚している。今と違って「家」の意識が強い時代である。当然非難中傷が2人に振りかかる。「文壇照魔鏡」なる匿名のゴシップ記事が出まわり裁判沙汰となる。晶子は周囲の冷淡な目を振り払うように彼を想う歌を作り、ついに堺の家を飛び出して鉄幹のもとへ走る。鉄幹も晶子への想いを受けとめ、歌集『みだれ髪』としてまとめあげたのであった。

夜の帳(ちやう)にささめき尽きし星の今を下界(げかい)の人の鬢のほつれよ

歌にきけな誰れ野の花に紅き否(いな)むおもむきあるかな春罪(はるつみ)もつ子

髪(かみ)五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ

血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな

椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃(いろもゝ)に見る

その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経(きやう)たまへ君

紫にもみうらにほふみだれ篋(ばこ)をかくしわづらふ宵の春の神

臙脂色(ゑんじいろ)は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命(いのち)

紫の濃き虹説きしさかづきに映(うつ)る春の子眉毛(まゆげ)かぼそき

紺青(こんじやう)を絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友(とも)歌ねびぬ

まゐる酒に灯(ひ)あかき宵を歌たまへ女(をんな)はらから牡丹に名なき

海棠にえうなくときし紅(べに)すてて夕雨(ゆふさめ)みやる瞳(ひとみ)よたゆき

水にねし嵯峨の大堰(おほゐ)のひと夜神(よがみ)絽蚊帳(ろがや)の裾の歌ひめたまへ

春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花(ばいくわ)のあぶら

今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾(みすそ)さはりてわが髪ぬれぬ

細きわがうなじにあまる御手(みて)のべてささへたまへな帰る夜の神

清水(きよみづ)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

秋の神の御衣(みけし)より曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ

経(きやう)はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅

乳ぶさおさへ神秘(しんぴ)のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子

下京(しもぎやう)や紅屋(べにや)が門(かど)をくぐりたる男かわゆし春の夜の月

くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春

春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る

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2009年11月1日日曜日

一握の砂 Ⅱ



空家(あきや)に入(い)り
煙草(たばこ)のみたることありき
あはれただ一人居(い)たきばかりに

何がなしに
さびしくなれば出(で)てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

やはらかに積れる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋(うづ)むるごとき
恋してみたし

かなしきは
飽(あ)くなき利己(りこ)の一念を
持てあましたる男にありけり

手も足も
室(へや)いっぱいに投げ出(だ)して
やがて静かに起きかへるかな

百年(ももとせ)の長き眠りの覚(さ)めしごと
呻(あくび)してまし
思ふことなしに

腕(うで)拱(く)みて
このごろ思ふ
大(おほ)いなる敵(てき)目の前に躍(をど)り出(い)でよと

手が白く
且(か)つ大(だい)なりき
非凡(ひぼん)なる人といはるる男に会ひしに

こころよく
人を讃(ほ)めてみたくなりにけり
利己(りこ)の心に倦(う)めるさびしさ

雨降れば
わが家(いへ)の人誰(たれ)も誰も沈める顔す
雨霽(は)れよかし

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか

この日頃
ひそかに胸にやどりたる悔(くい)あり
われを笑はしめざり

へつらひを聞けば
腹立(はらだ)つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

知らぬ家(いへ)たたき起して
遁(に)げ来(く)るがおもしろかりし
昔の恋しさ

非凡(ひぼん)なる人のごとくにふるまへる
後(のち)のさびしさは
何(なに)にかたぐへむ

大(おほ)いなる彼の身体(からだ)が
憎(にく)かりき
その前にゆきて物を言ふ時

実務には役に立たざるうた人(びと)と
我を見る人に
金借りにけり

遠くより笛の音(ね)きこゆ
うなだれてある故(ゆゑ)やらむ
なみだ流るる

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲(ほ)しくなりたり

死ぬことを
持薬(ぢやく)をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

路傍(みちばた)に犬ながながと呻(あくび)しぬ
われも真似(まね)しぬ
うらやましさに

真剣になりて竹もて犬を撃(う)つ
小児(せうに)の顔を
よしと思へり

ダイナモの
重き唸(うな)りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし

剽軽(へうきん)の性(さが)なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり

気の変る人に仕(つか)へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

龍(りよう)のごとくむなしき空に躍(をど)り出(い)でて
消えゆく煙
見れば飽(あ)かなく

こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後(のち)のこの疲れ

空寝入(そらねいり)生呻(なまあくび)など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため

箸(はし)止(と)めてふっと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな

朝はやく
婚期(こんき)を過ぎし妹の
恋文(こひぶみ)めける文(ふみ)を読めりけり

しっとりと
水を吸(す)ひたる海綿(かいめん)の
重さに似たる心地(ここち)おぼゆる

死ね死ねと己(おのれ)を怒(いか)り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

親と子と
はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
気まづきや何(な)ぞ

かの船の
かの航海の船客(せんかく)の一人にてありき
死にかねたるは

目の前の菓子皿(くわしざら)などを
かりかりと噛(か)みてみたくなりぬ
もどかしきかな

よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ

何がなしに
息(いき)きれるまで駆(か)け出(だ)してみたくなりたり
草原(くさはら)などを

あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年(ことし)も思ひ過ぎたる

ことさらに燈火(ともしび)を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと

浅草の凌雲閣(りよううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな

尋常(じんじやう)のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔

こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る

時ありて
子供のやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業(わざ)かな

とかくして家を出(い)づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きざるごとし

路傍(みちばた)の切石(きりいし)の上に
腕拱(く)みて
空を見上ぐる男ありたり

何やらむ
穏(おだや)かならぬ目付(めつき)して
鶴嘴(つるはし)を打つ群を見てゐる

心より今日(けふ)は逃げ去れり
病(やまひ)ある獣(けもの)のごとき
不平逃げ去れり

おほどかの心来れり
あるくにも
腹に力のたまるがごとし

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

友よさは
乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ
餓(う)ゑたる時は我も爾(しか)りき


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2009年10月31日土曜日

一握の砂 Ⅰ



東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
われ泣(な)きぬれて
蟹(かに)とたはむる

頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握(いちあく)の砂を示(しめ)しし人を忘れず

大海(だいかい)にむかひて一人(ひとり)
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出(い)でにき

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ
砂山(すなやま)の
砂を指もて掘(ほ)りてありしに

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)来(きた)りて築(きづ)きたる
この砂山は
何(なに)の墓(はか)ぞも

砂山の砂に腹這(はらば)ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出(い)づる日

砂山の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に
あたり見まはし
物(もの)言(い)ひてみる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握(にぎ)れば指のあひだより落つ

しっとりと
なみだを吸(す)へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

大(だい)という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来(きた)れり

目さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ児の癖(くせ)は
かなしき癖ぞ
母よ咎(とが)むな

ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
かなしくもあるか

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
父と母
壁のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

たはむれに母を背負(せお)ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

飄然(へうぜん)と家を出(い)でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど

ふるさとの父の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く
咳の出(い)づるや
病(や)めばはかなし

わが泣くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠(ほ)ゆるに似たりといふらむ

何処(いづく)やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細(ぼそ)さを
今日(けふ)もおぼゆる

いと暗き
穴(あな)に心を吸(す)はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ

こみ合(あ)へる電車の隅(すみ)に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ

浅草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに
まぎれ入(い)り
まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心

愛犬(あいけん)の耳斬(き)りてみぬ
あはれこれも
物に倦(う)みたる心にかあらむ

鏡(かがみ)とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽(あ)きし時

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗(あら)へば心戯(おど)けたくなれり

呆(あき)れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

わが髭(ひげ)の
下向く癖(くせ)がいきどほろし
このごろ憎(にく)き男に似たれば

森の奥より銃声(じうせい)聞ゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳あて
小半日(こはんにち)
堅(かた)き皮をばむしりてありき

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止(よ)せ止せ問答

まれにある
この平(たひら)なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴(き)く

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍(ほそ)をまさぐる

高山(たかやま)のいただきに登り
なにがなしに帽子(ばうし)をふりて
下(くだ)り来しかな

何処(どこ)やらに沢山(たくさん)の人があらそひて
鬮(くじ)引(ひ)くごとし
われも引きたし

怒(いか)る時
かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り
九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし

いつも逢(あ)ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

鏡屋(かがみや)の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩(あゆ)むものかも

何(なに)となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下(お)りしに
ゆくところなし

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