2009年11月6日金曜日

与謝蕪村


与謝 蕪村(よさ ぶそん、よさの ぶそん、享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、画家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩「帰去来辞」に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」、「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」、「謝寅(しゃいん)」など複数の名前を持っている。
摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。
20歳の頃
江戸に下り早野巴人(はやの はじん〔夜半亭宋阿(やはんてい そうあ)〕)に師事し俳諧を学ぶ。日本橋石町「時の鐘」辺の師の寓居に住まいした。このときは宰鳥と号していた。
寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿下野国宇都宮(栃木宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後丹後、讃岐などを歴遊し42歳の頃京都に居を構えた。この頃与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もあるが定かではない。
45歳頃に結婚し一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には夜半亭二世に推戴されている。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。死因は従来、重症下痢症と診られていたが、最近の調査で
心筋梗塞であったとされている。辞世の句は「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」。墓所は京都市左京区一乗寺金福寺(こんぷくじ)。
松尾芭蕉、
小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。
独創性を失った当時の俳諧を憂い『
蕉風回帰』を唱え、絵画用語である『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
1992年より
尾形仂等編で、『蕪村全集』全9巻が講談社で刊行開始、2008年に第5巻「書簡」が出され8巻まで揃った。また岩波文庫で『蕪村俳句集』、『蕪村書簡集』がある。
春の海 終日のたりのたり哉
柳散り清水涸れ石処々
鳥羽殿へ五六騎いそぐ
野分かな
花いばら故郷の路に似たるかな
不二ひとつうづみのこして若葉かな
牡丹散りて打かさなりぬ二三片
夏河を越すうれしさよ手に草履
ゆく春やおもたき琵琶の抱心
易水にねぶか流るゝ寒かな
月天心貧しき町を通りけり
さみだれや大河を前に家二軒
菜の花や月は東に日は西に
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
古庭に茶筌花さく椿かな
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
あま酒の地獄もちかし箱根山
鰒汁の宿赤々と燈しけり
二村に質屋一軒冬こだち
御火焚や霜うつくしき京の町
寒月や門なき寺の天高し
さくら散苗代水や星月夜
住吉に天満神のむめ咲ぬ
みじか夜や浅瀬にのこる月一片
秋の夜や古き書読む南良法師
うつつなきつまみ心の
胡蝶かな



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2009年11月3日火曜日

みだれ髪



『みだれ髪』(みだれがみ)とは歌人・与謝野晶子作の処女歌集である。1901年(明治34年)8月15日、東京新詩社と伊藤文友館の共版として発表。表紙装丁デザインは藤島武二。女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風は当時賛否両論を巻き起こした。

1973年(昭和48年)に、孫の与謝野馨(後の第74代内閣官房長官)によって主婦の友社から復刊されている。

内容
全399首 タテ192mm ヨコ84mm 三色刷 本文136頁
「この書の体裁は悉く藤島武二の衣装に成れり表紙みだれ髪の輪郭は恋愛のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」の文を第3頁に載せている。次の6章からなる。
第1章「臙脂紫」98首
第2章「蓮の花船」76首
第3章「白百合」36首
第4章「はたち妻」87首
第5章「舞姫」22首
第6章「春思」80首

晶子が雑誌「明星」などに投稿した作品を、与謝野鉄幹の編集で作られた。発表当時は晶子は鳳姓で、初版本も「鳳晶子」名義である。『みだれ髪』発刊直後の1901年(明治34年)10月1日、晶子は鉄幹と結婚。与謝野姓を名乗った。
『みだれ髪』の歌の殆どは、鉄幹への強い恋慕の感情が見られる。「明星」の編集を行っていた鉄幹は晶子の才能を認め、投稿を勧めていた。晶子も鉄幹の作品に強く引かれる物を感じていた。1900年(明治33年)8月、関西に来た鉄幹は晶子と出会い、意気投合。2人で京都に遊ぶ。既に結婚し子どもまでいた鉄幹だが、晶子の為、妻と離婚している。今と違って「家」の意識が強い時代である。当然非難中傷が2人に振りかかる。「文壇照魔鏡」なる匿名のゴシップ記事が出まわり裁判沙汰となる。晶子は周囲の冷淡な目を振り払うように彼を想う歌を作り、ついに堺の家を飛び出して鉄幹のもとへ走る。鉄幹も晶子への想いを受けとめ、歌集『みだれ髪』としてまとめあげたのであった。

夜の帳(ちやう)にささめき尽きし星の今を下界(げかい)の人の鬢のほつれよ

歌にきけな誰れ野の花に紅き否(いな)むおもむきあるかな春罪(はるつみ)もつ子

髪(かみ)五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ

血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな

椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃(いろもゝ)に見る

その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経(きやう)たまへ君

紫にもみうらにほふみだれ篋(ばこ)をかくしわづらふ宵の春の神

臙脂色(ゑんじいろ)は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命(いのち)

紫の濃き虹説きしさかづきに映(うつ)る春の子眉毛(まゆげ)かぼそき

紺青(こんじやう)を絹にわが泣く春の暮やまぶきがさね友(とも)歌ねびぬ

まゐる酒に灯(ひ)あかき宵を歌たまへ女(をんな)はらから牡丹に名なき

海棠にえうなくときし紅(べに)すてて夕雨(ゆふさめ)みやる瞳(ひとみ)よたゆき

水にねし嵯峨の大堰(おほゐ)のひと夜神(よがみ)絽蚊帳(ろがや)の裾の歌ひめたまへ

春の国恋の御国のあさぼらけしるきは髪か梅花(ばいくわ)のあぶら

今はゆかむさらばと云ひし夜の神の御裾(みすそ)さはりてわが髪ぬれぬ

細きわがうなじにあまる御手(みて)のべてささへたまへな帰る夜の神

清水(きよみづ)へ祇園(ぎをん)をよぎる桜月夜(さくらづきよ)こよひ逢ふ人みなうつくしき

秋の神の御衣(みけし)より曳く白き虹ものおもふ子の額に消えぬ

経(きやう)はにがし春のゆふべを奥の院の二十五菩薩歌うけたまへ

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅

乳ぶさおさへ神秘(しんぴ)のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれなゐ)ぞ濃き

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子

下京(しもぎやう)や紅屋(べにや)が門(かど)をくぐりたる男かわゆし春の夜の月

くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる

いとせめてもゆるがままにもえしめよ斯くぞ覚ゆる暮れて行く春

春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ

道を云はず後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ君と我と見る

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2009年11月1日日曜日

一握の砂 Ⅱ



空家(あきや)に入(い)り
煙草(たばこ)のみたることありき
あはれただ一人居(い)たきばかりに

何がなしに
さびしくなれば出(で)てあるく男となりて
三月(みつき)にもなれり

やはらかに積れる雪に
熱(ほ)てる頬(ほ)を埋(うづ)むるごとき
恋してみたし

かなしきは
飽(あ)くなき利己(りこ)の一念を
持てあましたる男にありけり

手も足も
室(へや)いっぱいに投げ出(だ)して
やがて静かに起きかへるかな

百年(ももとせ)の長き眠りの覚(さ)めしごと
呻(あくび)してまし
思ふことなしに

腕(うで)拱(く)みて
このごろ思ふ
大(おほ)いなる敵(てき)目の前に躍(をど)り出(い)でよと

手が白く
且(か)つ大(だい)なりき
非凡(ひぼん)なる人といはるる男に会ひしに

こころよく
人を讃(ほ)めてみたくなりにけり
利己(りこ)の心に倦(う)めるさびしさ

雨降れば
わが家(いへ)の人誰(たれ)も誰も沈める顔す
雨霽(は)れよかし

高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を
終るすべなきか

この日頃
ひそかに胸にやどりたる悔(くい)あり
われを笑はしめざり

へつらひを聞けば
腹立(はらだ)つわがこころ
あまりに我を知るがかなしき

知らぬ家(いへ)たたき起して
遁(に)げ来(く)るがおもしろかりし
昔の恋しさ

非凡(ひぼん)なる人のごとくにふるまへる
後(のち)のさびしさは
何(なに)にかたぐへむ

大(おほ)いなる彼の身体(からだ)が
憎(にく)かりき
その前にゆきて物を言ふ時

実務には役に立たざるうた人(びと)と
我を見る人に
金借りにけり

遠くより笛の音(ね)きこゆ
うなだれてある故(ゆゑ)やらむ
なみだ流るる

それもよしこれもよしとてある人の
その気がるさを
欲(ほ)しくなりたり

死ぬことを
持薬(ぢやく)をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば

路傍(みちばた)に犬ながながと呻(あくび)しぬ
われも真似(まね)しぬ
うらやましさに

真剣になりて竹もて犬を撃(う)つ
小児(せうに)の顔を
よしと思へり

ダイナモの
重き唸(うな)りのここちよさよ
あはれこのごとく物を言はまし

剽軽(へうきん)の性(さが)なりし友の死顔の
青き疲れが
いまも目にあり

気の変る人に仕(つか)へて
つくづくと
わが世がいやになりにけるかな

龍(りよう)のごとくむなしき空に躍(をど)り出(い)でて
消えゆく煙
見れば飽(あ)かなく

こころよき疲れなるかな
息もつかず
仕事をしたる後(のち)のこの疲れ

空寝入(そらねいり)生呻(なまあくび)など
なぜするや
思ふこと人にさとらせぬため

箸(はし)止(と)めてふっと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな

朝はやく
婚期(こんき)を過ぎし妹の
恋文(こひぶみ)めける文(ふみ)を読めりけり

しっとりと
水を吸(す)ひたる海綿(かいめん)の
重さに似たる心地(ここち)おぼゆる

死ね死ねと己(おのれ)を怒(いか)り
もだしたる
心の底の暗きむなしさ

けものめく顔あり口をあけたてす
とのみ見てゐぬ
人の語るを

親と子と
はなればなれの心もて静かに対(むか)ふ
気まづきや何(な)ぞ

かの船の
かの航海の船客(せんかく)の一人にてありき
死にかねたるは

目の前の菓子皿(くわしざら)などを
かりかりと噛(か)みてみたくなりぬ
もどかしきかな

よく笑ふ若き男の
死にたらば
すこしはこの世さびしくもなれ

何がなしに
息(いき)きれるまで駆(か)け出(だ)してみたくなりたり
草原(くさはら)などを

あたらしき背広など着て
旅をせむ
しかく今年(ことし)も思ひ過ぎたる

ことさらに燈火(ともしび)を消して
まぢまぢと思ひてゐしは
わけもなきこと

浅草の凌雲閣(りよううんかく)のいただきに
腕組みし日の
長き日記(にき)かな

尋常(じんじやう)のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔

こそこその話がやがて高くなり
ピストル鳴りて
人生終る

時ありて
子供のやうにたはむれす
恋ある人のなさぬ業(わざ)かな

とかくして家を出(い)づれば
日光のあたたかさあり
息ふかく吸ふ

つかれたる牛のよだれは
たらたらと
千万年も尽きざるごとし

路傍(みちばた)の切石(きりいし)の上に
腕拱(く)みて
空を見上ぐる男ありたり

何やらむ
穏(おだや)かならぬ目付(めつき)して
鶴嘴(つるはし)を打つ群を見てゐる

心より今日(けふ)は逃げ去れり
病(やまひ)ある獣(けもの)のごとき
不平逃げ去れり

おほどかの心来れり
あるくにも
腹に力のたまるがごとし

ただひとり泣かまほしさに
来て寝たる
宿屋(やどや)の夜具(やぐ)のこころよさかな

友よさは
乞食(こじき)の卑(いや)しさ厭(いと)ふなかれ
餓(う)ゑたる時は我も爾(しか)りき


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2009年10月31日土曜日

一握の砂 Ⅰ



東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に
われ泣(な)きぬれて
蟹(かに)とたはむる

頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握(いちあく)の砂を示(しめ)しし人を忘れず

大海(だいかい)にむかひて一人(ひとり)
七八日(ななやうか)
泣きなむとすと家を出(い)でにき

いたく錆(さ)びしピストル出(い)でぬ
砂山(すなやま)の
砂を指もて掘(ほ)りてありしに

ひと夜(よ)さに嵐(あらし)来(きた)りて築(きづ)きたる
この砂山は
何(なに)の墓(はか)ぞも

砂山の砂に腹這(はらば)ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出(い)づる日

砂山の裾(すそ)によこたはる流木(りうぼく)に
あたり見まはし
物(もの)言(い)ひてみる

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握(にぎ)れば指のあひだより落つ

しっとりと
なみだを吸(す)へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな

大(だい)という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来(きた)れり

目さまして猶(なほ)起(お)き出(い)でぬ児の癖(くせ)は
かなしき癖ぞ
母よ咎(とが)むな

ひと塊(くれ)の土に涎(よだれ)し
泣く母の肖顔(にがほ)つくりぬ
かなしくもあるか

燈影(ほかげ)なき室(しつ)に我あり
父と母
壁のなかより杖(つゑ)つきて出(い)づ

たはむれに母を背負(せお)ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

飄然(へうぜん)と家を出(い)でては
飄然と帰りし癖よ
友はわらへど

ふるさとの父の咳(せき)する度(たび)に斯(か)く
咳の出(い)づるや
病(や)めばはかなし

わが泣くを少女等(をとめら)きかば
病犬(やまいぬ)の
月に吠(ほ)ゆるに似たりといふらむ

何処(いづく)やらむかすかに虫のなくごとき
こころ細(ぼそ)さを
今日(けふ)もおぼゆる

いと暗き
穴(あな)に心を吸(す)はれゆくごとく思ひて
つかれて眠る

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂(しと)げて死なむと思ふ

こみ合(あ)へる電車の隅(すみ)に
ちぢこまる
ゆふべゆふべの我のいとしさ

浅草(あさくさ)の夜(よ)のにぎはひに
まぎれ入(い)り
まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心

愛犬(あいけん)の耳斬(き)りてみぬ
あはれこれも
物に倦(う)みたる心にかあらむ

鏡(かがみ)とり
能(あた)ふかぎりのさまざまの顔をしてみぬ
泣き飽(あ)きし時

なみだなみだ
不思議なるかな
それをもて洗(あら)へば心戯(おど)けたくなれり

呆(あき)れたる母の言葉に
気がつけば
茶碗(ちやわん)を箸(はし)もて敲(たた)きてありき

草に臥(ね)て
おもふことなし
わが額(ぬか)に糞(ふん)して鳥は空に遊べり

わが髭(ひげ)の
下向く癖(くせ)がいきどほろし
このごろ憎(にく)き男に似たれば

森の奥より銃声(じうせい)聞ゆ
あはれあはれ
自(みづか)ら死ぬる音のよろしさ

大木(たいぼく)の幹(みき)に耳あて
小半日(こはんにち)
堅(かた)き皮をばむしりてありき

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止(よ)せ止せ問答

まれにある
この平(たひら)なる心には
時計の鳴るもおもしろく聴(き)く

ふと深き怖れを覚え
ぢっとして
やがて静かに臍(ほそ)をまさぐる

高山(たかやま)のいただきに登り
なにがなしに帽子(ばうし)をふりて
下(くだ)り来しかな

何処(どこ)やらに沢山(たくさん)の人があらそひて
鬮(くじ)引(ひ)くごとし
われも引きたし

怒(いか)る時
かならずひとつ鉢(はち)を割(わ)り
九百九十九(くひやくくじふく)割りて死なまし

いつも逢(あ)ふ電車の中の小男(こをとこ)の
稜(かど)ある眼(まなこ)
このごろ気になる

鏡屋(かがみや)の前に来て
ふと驚きぬ
見すぼらしげに歩(あゆ)むものかも

何(なに)となく汽車に乗りたく思ひしのみ
汽車を下(お)りしに
ゆくところなし

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2009年10月27日火曜日

与謝野晶子


よさのあきこ、正字体與謝野晶子、明治11年(1878年)12月7日 - 昭和17年(1942年)5月29日)は明治時代から昭和時代にかけて活躍した歌人、作家、思想家大阪府堺市(現在の堺区)出身。旧姓は鳳(ほう)。戸籍名は「志よう」。ペンネームの「晶子」の「晶」はこの「しよう」から取った。夫は与謝野鉄幹与謝野寛)。



鳳志ようは、大阪府堺市甲斐町(現在の堺区甲斐町)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。実の兄にはのちに電気工学者となる鳳秀太郎がいた。9歳で漢学塾に入り、琴・三味線も習った。堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学すると『源氏物語』などを読み始め古典に親しんだ。また兄の影響を受け、「十二、三のころから、『柵草紙』(後には『めざまし草』)[1]『文学界』や紅葉、露伴、一葉などの小説を読むのが一番の楽しみ」(『明星』明治39年5月)であった。



20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。浪華青年文学会に参加の後、明治33年(1900年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と親しくなり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表。翌年家を出て東京に移り、女性の官能をおおらかに謳う処女歌集『みだれ髪』を刊行浪漫派の歌人としてのスタイルを確立した。のちに鉄幹と結婚。



明治37年(1904年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。明治44年(1911年)には史上初の女性文芸誌青鞜』創刊号に「山の動く日きたる」で始まる詩を寄稿した。明治45年(1912年)、晶子は鉄幹の後を追ってフランスパリに行くことになった。洋行費の工面は、森鴎外が手助けをし[2]、また『新訳源氏物語』の序文を書いた鴎外がその校正を代わった。同年5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第一回に晶子のパリ行きを取り上げ、翌6日には晶子の出発の様子を報じた(平塚らいてうなど総勢500余名が見送った)。翌6月の『中央公論』では、晶子の特集が組まれた[3]。5月19日、シベリア鉄道経由でパリに到着した晶子は、9月21日にフランスのマルセイユ港から帰国の途につくまでの4ケ月間、イギリスベルギードイツオーストリアオランダなどを訪れた。また帰国してから2年後、鉄幹との共著『巴里より』で、「(上略)要求すべき正当な第一の権利は教育の自由である。」と、女性教育の必要性などを説いた。



子だくさんだったが、鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。多忙なやりくりの間も、即興短歌の会を女たちとともに開いたりし、残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。墓は多磨霊園にある。
情熱的な作品が多いと評される歌集『みだれ髪』明治34年(1901年)や日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』が有名。『源氏物語』の現代語訳でも知られる。



歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立。伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼすこととなった。所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。



明治37年(1904年)9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾木下尚江中里介山大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる。)



大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、大正14年(1911年)6月11日、桂月は57歳で病没するが『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。



この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、明治43年(1910年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、昭和17年(1942年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向者であると評する者もいる。



日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言した。ただし、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を明治44年(1911年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった菅野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している。



明治44年に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省内務省文芸作品顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。



大正4年(1915年)に読売新聞に『駄獣の群』という国会や議員に対する不信を詠う長詩を発表した。また、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。



晶子が34歳のとき『新訳源氏物語』を四冊本として出したが、拠り所とした北村季吟の『湖月抄』には誤りが多く、外遊の資金調達のために急ぎ、また、校訂に当たった森鴎外は『源氏物語』の専門家でないなど欠陥が多いものだった。そのため、一からやり直し、源氏五十四帖のうち最後の『宇治十帖』を残すまで書き上げたが、関東大震災のために文化学院にあった原稿が灰になってしまう。またも一からやり直し、さらに十七年かけて六巻本『新新訳源氏物語』を完成させる。昭和13年(1938年)10月より刊行し、翌年9月に完結した。
晶子は日露戦争後から新聞や雑誌に警世の文を書くようになり、評論活動をはじめる。評論は、女性の自立論と政治評論に分類できる。教育問題なども評論している。



女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。



反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した(現代でも問題になっているアグネス論争類似した論争である)。



政治評論については反共産主義、反ソ連の立場から論陣を張った。その論文の数は、20本を越える。『君死にたまふことなかれ』を前面に出して一概に反戦・反天皇の人物であったわけではなく、当時『労農主義』として紹介されていたマルクス・レーニン主義も批判していた。



シベリア出兵を日本の領土的野心を猜疑され日露戦争の外債による国民生活の疲弊を再び起こす、と反対している。また、米騒動に関して『太陽』誌上に「食料騒動について」という文を書き、その中で当時の寺内正毅内閣の退陣を要求している。



晶子は『中央公論大正8年(1919年)5月号に「教育の国民化を望む」(単行本『激動の中を行く』にした時『教育の民主主義化を要求す』と改題)という文を書いている。各府県市町村民選教育委員を設けることを提案している。今の教育は「文部省の専制的裁断に屈従した教育」であるから、それを「各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任」し、それによって「教育が国民自身のものとなる」と主張している。他にも、ヨーロッパの老婦人が若い婦人とさまざまの社会奉仕に努力する姿を見て、日本にも成人教育社会教育の場を作るよう提言している。



羽仁もと子による自由学園の開校と前後して文化学院の創立に尽力、文部省の規定に逆らい、男女共学で開校。のち文化学院女学部長

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2009年10月24日土曜日

山川登美子


やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日歌人

福井遠敷郡竹原村(現小浜市)に生まれる。生家は小浜市の上級藩主の旧家筋。1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)4月、母校研究生となり英語を専修。この頃、「明星」の社友となった。1904年(明治37年)、日本女子大英文科予備科に入学。1907年(明治40年)3月まで在学。その間、与謝野鉄幹らがおこした新詩社に接近し、与謝野晶子らと共著『恋衣』を刊行。「白百合」と題して短歌131首を収載した。

明治12(1879)年 福井県遠敷郡竹原村(現[小浜市])に生まれる。

  27(1894)年 日清戦争開戦。

  28(1895)年 大阪の梅花女学校入学。

  30(1897)年 梅花女学校卒業。帰郷。短歌、初投稿、入選。

  33(1900)年 梅花女学校研究生となる。英語を専修。

   『明星』に初めて短歌一首掲載する。新詩社社友となる。

   夏、大阪にて与謝野鉄幹、鳳晶子(後の与謝野晶子)と出会う。

   秋、与謝野、鳳と京都に行き、一泊。

            山川駐七朗と結婚。

  34(1901)年 牛込に新居を構える。

    晶子、歌集『みだれ髪』を刊行し、鉄幹と結婚。

  35(1902)年 夫病死。

  37(1904)年 日本女子大英文科予備科に入学。

            日露戦争開戦。

  38(1905)年 与謝野晶子らとの共著、詩歌集『恋衣』刊行。

            急性肝臓炎に罹り入院。

  39(1906)年 姉の嫁ぎ先、京都で静養。

  40(1907)年 日本女子大学中退

  42(1909)年 4月15日、死亡。

与謝野鉄幹により、「白百合の君」と称される。

出身校である梅花女学校(現:梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。


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2009年10月22日木曜日

石川啄木


盛岡時代

岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)の曹洞宗日照山常光寺の住職であった石川一禎の長子として生まれる(戸籍によると1886年2月20日の誕生であるが、1885年(明治18年)10月27日に誕生したとも言われている)。母の名はカツ

1887年(明治20年)3月に、父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する。

渋民尋常小学校、盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名、現盛岡一高)で学び、小学校からは盛岡市内に居住する。

中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友岡山不衣金田一京助らと知り合う。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生野村長一(のちの野村胡堂及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱く。短歌の会である“白羊会”を結成したのもこの頃である。1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。これが初めて活字となった啄木の短歌であった。

テスト中のカンニング発覚(同級の船越金五郎の日記に記載)・欠席の多さ・成績の悪さなどの理由から退学勧告を受け、1902年(明治35年)10月27日に中学校を退学し、文学で身を立てる決意をもって上京し、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通う。

11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、翌10日は与謝野夫妻を訪ねる。滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、翌1903年(明治36年)2月、父に迎えられて故郷に帰る。5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し、新詩社同人となる。この頃から啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をし、6日後に堀合家から婚約に関して同意を得られる。9月から10月にかけて青森、小樽を旅行、駅長であった小樽の義兄宅に宿泊。10月31日、詩集刊行を目的として再び東京に出る。



1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加。故郷では、3月に父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去するという事態が起きている。5月3日、出版費用を自分でも集めた第一詩集『あこがれ』を小田島書房より刊行。上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられた。5月12日、啄木は不在であったが堀合節子の婚姻届を父親が盛岡市役所に出す。時に啄木、満年齢19歳。啄木は親戚が集まった形式的な結婚式には出席せず。6月4日に盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る。一家の扶養も啄木が負うようになる。同月、『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載。9月5日、啄木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を刊行する(発行人は父一禎)。岩野泡鳴正宗白鳥小山内薫等30人余りの作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るも、資金問題で継続刊行ができなかった。

1906年(明治39年)2月17日、函館駅長の義兄を訪問し、一家の窮状打開を相談するも解決できなかった。2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核で亡くなる。

3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務。21日には徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除される。6月、小説を書き始める。12月、評論「林中書」を脱稿。12月29日、長女京子が生まれる。落ち着いた生活が続いたが翌1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社苜蓿社より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得る。4月1日、新生活を北海道で開かんとし、教職を離れることを決意して辞表を出し、引き留められるものの、ストライキ騒ぎで退職する。
放浪時代

5月5日、函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せるが、妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活であった。5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる、6月、吉野白村の口利きで、弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合う。8月には「函館日日新聞」遊軍記者も兼ねたが、函館大火があり、函館を離れる。9月、札幌で『北門新報』の校正係となる。9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社。なお、小樽日報では同僚に野口雨情がいた。

1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者西川光次郎の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、旧釧路新聞社(現釧路新聞社と社名が同一であるが、全くの別会社。新聞事業令に基づく1942年の新聞統合の結果、旧北海タイムス・旧小樽新聞・旧函館新聞・旧釧路新聞など道内各地11紙が統合して現北海道新聞社が誕生した)に勤務するが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をする。

東京での作家活動と生活

4月28日より東京、千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。5月4日、中学で一学年上であった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。逼迫した生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金銭を含むさまざまな支援をしている。9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。

1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記す。『スバル』創刊、発行名義人になる。就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。7日より新しいノートで「 ローマ字日記」を著す。ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは、啄木死後70年近くを経た1970年代の全集刊行時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困であったと、金田一京助の子息である金田一春彦は語っている。ちなみに金田一京助は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に石川啄木石川五右衛門子孫ではないか?と疑ったことがある。

4月13日「老いたる母から悲しき手紙がきた」「今日は社を休むことにした」「貸本屋が来たけれど、6銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記にあり、次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はH・G・ウェルズの作品『宇宙戦争』を翻案したもので、1909年3月に刊行されている。

6月16日、函館から家族(妻子と母)が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る[1]。10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうも、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。

1910年(明治43年)3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き刊行事務全般を受け持つ。
啄木と「大逆事件

5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆。6月3日、幸徳秋水拘引の記事解禁となるも、刑法73条に関わる記事はなかった。しかし新聞社勤務である啄木は連日の新聞記事を集める作業を進めており、これを「大逆罪」の件と認識していたと思われる。7月1日、社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。8月下旬には評論「時代閉塞の現状」を執筆するが『朝日新聞』には掲載されていない。9月15日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。8月の朝鮮併合後の作として「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。10月4日、長男真一が誕生したが、27日には病死している。12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より刊行。この時啄木満24歳。

1911年(明治44年)1月、友人の平出修弁護士と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用する。啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。

1月10日、アメリカで秘密出版され、日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(大杉栄訳か?)を歌人谷静湖より寄贈され、愛読する。

1月13日、土岐哀果と会い、雑誌『樹木と果実』の刊行計画を相談したが、結局実現はしなかった。

啄木と社会主義

啄木の幸徳事件への思いは尋常ではなく、膨大な公判記録を部分ではあるが読み込み、裁判全体は政府がフレームアップしたものと確信している。

5月には幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに「A LETTER FROM PRISON」と題し前文を書く。

6月15日から17日にかけて長編詩を執筆、「はてしなき議論の後」と題す。

病気療養と死

7月28日、妻節子も肺尖カタルと診断される。8月7日、病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町へ移る(現・文京区小石川5-11-7宇津木マンション)。9月3日、父が家出をする。12月、腹膜炎肺結核を患い、発熱が続く。

1912年(明治45年)3月7日、母カツ死去。4月9日、土岐は第二歌集刊行の話を啄木に伝える。4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水にみとられている。享年26。

死後

4月15日、浅草等光寺で葬儀、夏目漱石も参列する。土岐が生まれた寺であり、彼が葬儀の世話をした。6月14日、妻節子が次女を出産。房州千葉県)で生まれたため房江と名付ける。6月20日、第二歌集『悲しき玩具』刊行、土岐がタイトルをつける。9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。

翌1913年(大正2年)、一周忌を機に、函館の大森浜を望む立待岬に宮崎郁雨らの手で墓碑が立てられ遺骨も移される。同年5月5日、節子も肺結核で病死。遺児は節子の父親が養育する。東雲堂書店から『啄木遺稿』『啄木歌集』が刊行される。

1915年(大正4年)には、『我等の一団と彼』が東雲堂書店から刊行。

1919年(大正8年)、友人たちの尽力により、3巻から成る全集新潮社より刊行される。

全集はその後も改造社(1928-29年 全5巻。1978年ノーベル書房から復刻)、河出書房(1949-53年 全25巻)、岩波書店(1953-54年 全16巻)、筑摩書房(1967-68年 全8巻、および1978-80年 全8巻)から出版されている。

1930年(昭和5年)長女京子が懐妊中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去。その二週間後には次女房江も肺結核により19歳で死去。

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