芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。
経歴
伊賀国(現在の三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。松尾家は農業を業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。
若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して俳諧の道に入った。寛文6年(1666年)に良忠が歿するとともに仕官を退く。
寛文12年(1672年)、処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納。延宝3年(1675年)に江戸に下り、神田上水の工事に携わった後は延宝6年(1678年)に宗匠となり、職業的な俳諧師となった。延宝8年(1680年)に深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植え、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉
天和2年(1682年)の天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐国谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山伝右衝門に招かれ流寓する。
しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残した。元禄2年(1689年)、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく辞世の句と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった。なお、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は死の床に臥す直前に書いた句である)。享年51。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。
弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、河合曽良、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。


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